名を捨てた蔵――福井「梵」、日本酒という段をさらに登る

名を捨てた蔵――福井「梵」、日本酒という段をさらに登る
連載「和酒の階段(The Sake Staircase)」第2話|第1段:日本酒②

日本酒の世界には、磨きの目安になる数字がある。米の外側を削り、磨いたあとに残る白米の重さの割合を、精米歩合と呼ぶ。米を50%以下まで磨き、吟醸造りで醸した酒のうち、米と米麹と水だけで造るものは純米大吟醸、醸造アルコールを加えるものは大吟醸と呼ばれる。

福井県鯖江市に、蔵内平均精米歩合が34.5%という蔵がある。特別な一本だけの数字ではない。蔵全体の平均が、純米大吟醸・大吟醸の基準よりさらに深く磨き込まれている。合資会社 加藤吉平商店。銘柄の名は「梵(ぼん)」という。

第0話で和酒を五つの段として見渡し、第1話では丹波の「小鼓」から日本酒という最初の段を登りはじめた。第2話も同じ段に留まる。この段が、どこまで高く登れるのかを確かめるためである。

この蔵は、はじめから磨きの蔵だったわけではない。創業は1860年(万延元年)、江戸の末である。両替商や庄屋を務めた家が、福井県鯖江市で酒造りを始めた。昭和の初めには「越乃井」という銘柄が北陸清酒鑑評会で4年連続の最優秀賞に選ばれ、昭和天皇の御大典の儀では地方選酒として採用された、と蔵の歩みに記されている。つまり、名声のある名前を、この蔵はすでに持っていた。

1963年、蔵はその名前を捨てた。すべての酒の名をひとつに統一する。選ばれたのは、サンスクリット語で「けがれなき清浄」「真理をつく」を意味する一文字、「梵」だった。英字表記はBORN。英語のborn(生まれる)と同じ綴りになる。国内の品評会で積み上げた名前を手放し、世界のどこでも記憶される一文字に懸けた決断である。

その大胆さは、名前だけにとどまらなかった。蔵の歩みによれば、1968年から日本初の市販大吟醸酒の本格発売に踏み出し、翌1969年には商品として日本初の大吟醸酒「梵 超特撰デラックス」を発売している。さらに1971年には「梵 極秘造大吟醸」と、日本で最初の市販熟成酒とされる「梵 三年酒オールド」も世に出した。「大吟醸」という言葉がまだ一般に知られていない時代に、この区分を商品として市場に問うた蔵だといえる。

現在の梵の設計は、三つの柱で説明できる。第一に、米。すべての酒を米と米麹と水だけで造り、余分な添加物は加えない。原料米は兵庫県特A地区産契約栽培の山田錦、福井県産五百万石、さかほまれに絞っている。第二に、水。仕込み水には、地下約184mから汲み上げる白山連峰の伏流水を使う。第三に、時間。すべての酒をマイナスの温度帯で熟成させ、短いものでも最低1年、長いものでは10年以上かけて世に出す。磨いた米で醸し、凍る寸前の静けさの中で寝かせる。梵の骨格は、この三つでできている。

その設計を推し進めた先にあるのが「梵 超吟」である。精米歩合は20%。米の80%を削り落とし、マイナス10℃で約5年間熟成された酒を中心にブレンドする、梵を代表する純米大吟醸である。磨きだけではなく、時間まで極端に削ぎ澄ませた一本だ。

海外市場でもこの酒は、ワインの文脈で語られてきた。米国の流通資料では、Robert Parker系の評価として93点が紹介されている。ここで重要なのは、単に高得点を得たことではない。日本酒が、吟醸香や甘味だけではなく、熟成による深さや余韻まで含めて、ワインの評価軸の中に持ち込まれたことである。

そして、この蔵の酒は国家の儀礼の場にも迎えられていく。国賓クラスの歓迎晩餐会などで乾杯に用いられる酒として知られ、2000年にはロンドンの国際酒祭りで「梵・吟の翼」が第1位グランプリに選ばれた。これを機に、同年12月、名を「日本の翼(WING OF JAPAN)」に改める。2007年11月には、日本政府専用機で初めての正式機内酒に採用され、2008年8月からは日本航空の成田—ニューヨーク線新ファーストクラスにも搭載された。

この「日本の翼」は、精米歩合20%と35%の純米大吟醸を、0℃以下で約2年熟成させてから合わせる一本である。フランスで開かれる日本酒コンクール、Kura Master 2025では、純米大吟醸酒1–35%部門の金賞に選ばれた。

梵はいま、世界118カ国へ輸出されている。「梵」の商標も、日本を含む100以上の国と地域で正式に登録されている。1963年に世界を見据えて選ばれた一文字は、六十年あまりをかけて、その名に懸けた広がりを現実のものにしたことになる。

乾杯タイランド2026の会場で梵の酒に出会ったとき、思い出してほしいのは、この蔵の高さと大胆さの由来である。第1話の小鼓が日本酒という段の入口だとすれば、梵は同じ段の高みを示す蔵である。ひとつの段の中に、これほどの幅がある。

梵の物語の続きは、三つの場所につながっている。蔵元の物語をゆっくり辿る場として、テイスティングバーのSalon du Japonisantがある。プロの視点による品揃えと知識に触れられる場として、伝統的な酒販店のNadaya Saketenがある。そして、米と米麹と水だけで醸される純米の酒を、発酵と麹の文脈から捉え直す場として、KOUJI ALCHEMIST by salon du japonisantがある。同じ蔵を、三つの異なる角度から知ることができる。

Koji’s Note
私が梵にいちばん惹かれているのは、精米歩合の数字よりも、どの商品でも最低1年は氷温で熟成させてから世に出す、という姿勢だ。磨きの蔵は他にもあるが、蔵のすべての酒に時間を仕込んでいる蔵はそう多くない。賞を取った名前を捨ててまで世界で通じる一文字を選んだ1963年の決断にも、同じ徹底が通っていると思う。バンコクでまず知ってもらいたいのは「梵 ゴールド」である。その先にある日本の翼や超吟の世界まで、ゆっくり登ってもらえればと思う。

開幕まで、あと56日。次回も第1段、日本酒の階段をもう一段登る。


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