詩人が名づけた酒――丹波「小鼓」、日本酒という最初の一段

詩人が名づけた酒――丹波「小鼓」、日本酒という最初の一段
連載「和酒の階段(The Sake Staircase)」第1話|第1段:日本酒①


バンコクでこの蔵に最初に出会う人の多くは、酒よりも先に、ひとつの壺型のボトルに目を留める。古代ギリシャやローマの壺をかたどったガラスの器に、大粒の南高梅が静かに沈んでいる。小鼓「プラムトニック梅申」は、丹波の梅のリキュールである。

けれども、その壺の奥には、創業から百七十年を超えて続く一軒の日本酒蔵がある。そして、その蔵がいま存在しているのは、優れた経営判断のためではない。一人の俳人との文通から始まった友情のためである。

第0話で、私たちは和酒を五つの段からなる階段として見渡した。その最初の一段が、日本酒。米を磨き、米で醸す醸造酒である。一段目を、この丹波の蔵から登りはじめたい。

西山酒造場が兵庫県丹波市市島町で創業したのは、1849年、江戸時代の末である。丹波杜氏を生んだ土地である。この地は、竹田川の伏流水という軟水と、昼夜の大きな寒暖差に恵まれ、繊細な吟醸酒づくりに向く。なお、ここは丹波市であり、隣接する丹波篠山市とは別の自治体である。

だが、老舗であることは、安泰であることを意味しない。明治の末から大正にかけて、家業はかたむき、蔵は存続の危機に立たされていた。

窮地にあった3代目の蔵主は、酒ではなく、俳句に没頭していた。正岡子規の句に打たれ、やがて近代俳句の巨匠である高浜虚子に直接師事する。東京と丹波という距離を、二人は郵便でやりとりした句で埋めた。師弟の対話は深まり、蔵はいつしか芸術家たちが集うサロンのようになっていく。

1915年、虚子は一句とともに、この蔵の酒に名を授けた。「ここに美酒あり 名づけて小鼓といふ」。経営の立て直しではなく、一人の詩人の言葉が、蔵に新しい背骨を与えた瞬間である。この蔵主はやがて、俳号を泊雲とした。

芸術との縁は、銘柄の名前だけにとどまらない。「路上有花」など、同蔵の酒造りに用いられる協会10号酵母は、日本画家・小川芋銭の息子である小川知可良が分離した酵母として知られる。芸術家との絆が、酵母という目に見えないところにまで織り込まれている蔵は、そう多くない。

その酵母を用いた酒には、リンゴや洋梨、白桃を思わせる香りと、おだやかな酸が現れやすい。竹田川の軟水がそこに重なり、酒質はなめらかに整う。同蔵の日本酒「路上有花(ろじょうはなあり)」は、禅の言葉から名をとり、ボトルの意匠も芸術家・綿貫宏介が手がけた一本である。名も、酵母も、佇まいも、すべてが芸術に貫かれている。

こうした酒造りは、国内外で静かに評価されてきた。先に触れた梅のリキュール「プラムトニック梅申」は、清酒とブランデーを掛け合わせる珍しい二段仕込みから生まれた一本で、フランス・パリでソムリエらがブラインドで審査するKura Master 2025において、初出品ながら金賞に選ばれている。

壺の梅のリキュールを手がかりにしても、純米大吟醸を手がかりにしても、たどり着く先は同じ一軒の蔵である。日本酒という段の入口に小鼓を置くのは、この蔵が「醸造酒」という和酒の出発点を、親しみやすい姿とともに見せてくれるからだ。乾杯タイランド2026で小鼓に出会ったとき、その一本の背後に、丹波の水と、一人の俳人による名づけがあることを思い出してほしい。

小鼓の物語の続きは、三つの場所につながっている。蔵元の物語をゆっくり辿る場として、テイスティングバーのSalon du Japonisantがある。プロの視点による品揃えと知識に触れられる場として、伝統的な酒販店のNadaya Saketenがある。そして、梅と清酒、ブランデーから生まれた梅申を発酵や麹の文脈から捉え直す場として、KOUJI ALCHEMIST by salon du japonisantがある。同じ蔵を、三つの異なる角度から知ることができる。

Koji’s Note
私がこの蔵に惹かれるのは、酒の味より先に「名づけ」やボトルデザインの物語に出会ったからだ。経営判断ではなく一句が蔵を救った、という筋書きは、効率ばかりが求められる時代にこそ強く響く。バンコクではまず壺の梅のリキュールから知ってもらい、その奥にある丹波の日本酒へ、ゆっくり階段を登ってもらえればと思う。

開幕まで、あと60日。次回も第1段、日本酒の階段をもう一段登る。


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